アドラー心理学「勇気づけ」で
「自分の問題を自分で解決できる能力がある」子どもたちのお手伝いができるよう日々鍛錬中

2016-10-21

粘土ワーク

母と私の関係は「そこそこ」と私は思っています。
協力できることはお互いに協力している感じです。
好きとか嫌いとかそういう感情をあまり意識することはありませんが、それなりに心配ですし、元気でいてほしいとも願っています。困ったときは助けるつもりもあります。


さて、先日、粘土ワークに参加しました。
6歳のころの自分を思い出しながら、家族の一場面を粘土で表現しました。
その後、グループの方と色々と家族について語るのですが、
私が作ったその粘土の作品を見て、「お母さんに甘えてて優しい雰囲気です」と抱いて下さった感想にとてもモヤモヤしました。モヤモヤしたというよりも反発を覚えた感じです。


私が作った作品は「夜ごはん後の少しゆっくりしている時間」の場面です。
確かに私は母の膝に座っていて、抱いて下さった感想はごもっともなんですけれど、「これが甘えられた唯一の時間なの」と訴えたかったんです。

母は家で仕事をしていて、仕事をしているときはもちろん遊んでもらえなくって、姿はそこにあるけれど、気持ち的には近くない。6歳のころの私にとって、母は甘えられる存在ではなかったのかもしれません。反対にもっと甘えたかったという気持ちがあるのかもしれません。

ただこの時の気持ちは、7歳、5歳の子どもを育てている今、大きく関わっている気がします。
「甘えたかった」私がいるのにも関わらず、私は子どもたちからの「甘え」を許容できていない気もします。

子どもを産んでから、色々な局面で、私が我が子に抱く気持ちがとても冷静に感じてしまうとき、「私に母性というものがあるのだろうか?」と自問自答することがあります。そんな自問自答を繰り返し、辿りついた答えは、私の子育てはは「母性」からではなく「責任感」からのモチベーションの方がしっくりとくるんです。
「母性」という定義が曖昧ではあるけれど、私の母性を自分自身が理解も体感もできてない気がしていて、これが私の不安だったりもして・・・

何だかまとまりのない文章だけれど、

母は子どもにとって存在が大きいってこと、いい意味でも悪い意味でも。
そして6歳のころの私をずっと抱えて成長しているんだろうな、いい意味でも悪い意味でも。

粘土ワークに参加して、自分と向き合う機会になりました。

 
 

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